『チベット魔法の書』2 A. デビットニールの生涯(リマ)

【オペラ歌手の衣装のアレクサンドラ】

『チベット魔法の書』1はしがきよりからのつづきです。

あとがきより引用、文章を読みやすく少し変えてあります。

著者のアレクサンドラ・デビットニールはフランスの女性探検家・著作家です。

1910年代、白人禁制の時代だったチベットに、白人女性として初めて入国を果たし、この神秘な国の精神世界の研究に長年月を費やしました。

彼女は、フランス人画家の甥を父として、ベルギー貴族の娘を母として生まれました。
しかし、夫婦仲は冷たく、結婚後13年の冷えた歳月の後、ようやく彼女が生まれたのです。

母親は、女の子だったのでがっかりして育児を放棄、看護婦や家政婦にアレクサンドラの面倒を任せました。
アレクサンドラは、このような母を決して許しませんでした。

彼女は6歳修道院附属の学校に預けられました。
自由と道への強い憧れの気持ちも、この頃に芽生えました。

「修道院の高い塀を見るたび、私はこの塀を乗り越え、そこから続く道をどこまでもたどって、未知の世界に羽ばたきたいと言う気持ちが募った」

成人したアレクサンドラは、ソルボンヌ大学でサンスクリット学者として有名なフーコー教授のもと東洋思想を学び、卒業後、憧れのインドに旅立ちました。

次に、オペラ歌手として、東洋各地、北アフリカを数年間旅して回りました。

1904年(36才) 、彼女はフランス人エンジニアのフィリップと結婚しましたが、自由を求める彼女には、平凡な主婦業はとても務まりませんでした。
7年間の結婚生活は心身を磨滅させるだけでした。

ついに、夫は妻がアジアに旅立つことを許し、アレクサンドラが10年以上留守をすることになっても、彼女に送金し続けました。

一方アレクサンドラは、ほとんど毎日のように夫に日記を書き続けました。
2人は強い精神的な絆によって固く結ばれていたのでした。

【シッキムの王子シドケオン・トゥルク】

アレクサンドラは、インド各地を巡り、当時の思想家たちと意見を交わしあいました。
その中で人生を変えることになる3人の重要人物に出会いました。

1人はシッキムの若き王子シドケオン・トゥルクで、この人とは、打てば響くが如く気持ちが通じ合ったのでした。

「シスター・デビットニール、私たちがここで出会い、宗教問題を話し合ったのは前世で決めた事に違いがありません。あなたのおっしゃるように、このような大きな機会を手にした今、私たちはまことの心理を見いだすことに、身を捧げるべきです」

王子は、当時中国の戦いでシッキムに亡命していたダライ・ラマ13世の接見も整えてくれました。
女性としてダライ・ラマと直接会談をしたのはアレクサンドラが初めてでした。
彼女はこのことを非常に誇りに思いました。

ダライ・ラマは、彼女に、「チベット語を学べ」と助言して、「死者の書」の翻訳者として有名なダワ・サンダップを彼女の通訳者に指名しました。

3人目は、長身の洞窟の隠者ラチェン・ゴムチェンでした。
彼女は後に、ゴムチェンの招きにより、ヒマラヤ山脈の深くに分け入り、師の洞窟のそばに自ら隠居場を構えて、1年半の間、共に瞑想と聖典研究に時を費やし、隠者としての体験を積んだのでした。

【ラマ僧尼姿のアレクサンドラ】

彼女は、シドケオン・トゥルクからラミナ(ラマ僧尼)の法衣を授与され、正式にラマ教の僧侶となり、トゥルクの寺院で若い僧たちの教育にも当たりました。

アレクサンドラは、1916年に、ダライラマに次ぐ宗教指導者であるパンチェン・ラマに招かれ3,800人の僧侶のいるタシルンポ寺に滞在、ここで名誉哲学博士号を授与されました。

しかし、イギリス政府からの退去命令を受け、後ろ髪を引かれる思いでチベットを後にしました。

「私は、故国でもない国にホームシックを覚えた。

あの大平原、荒野、万年雪、頭上に広がる大空が、私を掴んで離さない。

風の音以外何も聞こえのあの静けさ、草1つ育たぬあの荒れ果てた大地、幻想的に並ぶ岩岩、目もくらむような峰と眩しい光に満ちた地平線に、私の心はすっかり奪われている」

【チベット旅行中のアレクサンドラ一行】

翌年、彼女は中国からチベットに入ることを計画し、途中で日本にも立ち寄っています。
日本では当時の仏教界を代表する鈴木大拙に招かれて、京都の寺で生活しましたが、狭苦しい日本の生活は全く合いませんでした。

日本での1番の収穫は、川口慧海(かわぐち えかい)との出会いだったそうです。

慧海は、彼女より一足先にダライ・ラマとの接見を果たし、ラサヘの困難の巡礼を終えていました。
彼の貴重な体験は、アレクサンドラの旅を成功させる上での大きな助けとなりました。

こうして、彼女は再びチベットのラサにたどり着くまでの5年間、チベット人巡礼を装って各地を放浪して過ごすことになったのでした。

白人ラマ僧尼の噂はかなり知られていたので、顔を黒く塗り、髪も染めてチベット人になりきりました。

彼女はシッキムで雇い入れ、後に養子にしたアフル・ヨンデンという忠実な若き僧が常に彼女を守り、荷物を運ぶ従者にも恵まれました。

1925年(57才)、彼女はラマ・ヨンデンと共にフランスに帰国、アルプス山中に居を構えて執筆活動に入りました。
チベットでの貴重な体験を本にし、重要な教典の翻訳にも着手、1969年に102歳の誕生日を迎えて死ぬまでの間に40冊をこえる作品を世に残し、功績によりレジャンドヌール勲章を授与されました。

彼女の葬儀で追悼の言葉を述べたダライ・ラマ14世の言葉

「その大きな長所は、彼女の見たままの正真正銘のチベットの姿を伝えているところにある。

今の学者や歴史家は、著者の見解に対抗するかもしれないが、彼女の作品の本質的な価値は変わる事は無い。

氷雪の国とその住民に起こった最近の変動によって、デビットニールの描いたものの多くは、今やすっかり失われてしまったが、その事は彼女の記述の価値をますます高めるばかりである」

『チベット魔法の書』3 A.デビッドニールの残したものにつづきます。

この記事はHAPPYリマのスピリチュアルノートからの転載です。

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